blog

2022/02/03 12:04

江戸時代初めには、各大名は江戸城を中心とする地域の屋敷内に競って立派な庭園を造ったことで、その手入れをするため、駒込・巣鴨周辺(現:文京区)に多くの植木職人が居を構えるようになりました。
明暦の大火(1657年)が起きると、多くの大名屋敷・武家屋敷が消失すると共に、植木職人の多くが移転を余儀なくされます。江戸から荒川を隔てた安行村(現川口市)は、土質も比較的に乾燥し、植木が育ちやすく、かつ交通事情においても江戸との交流がしやすいことから、多くの植木職人が住むようになりました。
その後、大名屋敷・武家屋敷の再建と共に江戸の復興に植木職人も尽力し、植木事業者として、成長・拡大をし、植木の生産・職人の輩出拠点となり、一般庶民向けの盆栽の生産販売も始める人も増えていきました。

一方、時代は変わり、関東大震災(
1923年)が起きると、当時、都内に住んでいた盆栽事業者は、移転を余儀なくされます。草深い武蔵野の山林地帯に、東京の盆栽事業者が移り住み、大宮盆栽村を形成します。

また、戦後には、安行を発端にした植木生産は土質の似ている隣接地の大門・野田地区周辺(現さいたま市)に伝播し、全国・海外にも植木や盆栽の出荷は拡大します。

このよう経緯を経て、昭和高度成長期には、安行並びにさいたま市は、福岡県久留米市・兵庫県宝塚地域と共に日本植木の三大生産地として広くに認識され、大宮盆栽町と合わせて『植木・盆栽のふるさと』になったのです。

しかしながら、さいたま市の植木・盆栽事業者も高齢化が進み、地場産業としての勢いは、かつてよりも弱まっていると言うのが現状です。これまで「植木・盆栽のふるさと」地域として蓄積されてきた経験や知恵を、今日的な形で継承をしていくには課題も多く、「かじゅある盆栽」がお役に立てると考えています。これまでは植木や盆栽に触れる機会の少なかった人たちも、ご自身の生活の中で樹木に触れる愉しみを感じて頂き、さらに自分なりのとっておきの空間づくりに役立て頂くことができれば、地場産業の今日的な状況に合わせた継承にも繋がると考えています。